紅の天鵞絨14

 

車内の風景が車窓を流れる。議員会館から枢木ゲンブの東京の自宅までの道は人もなく、街灯の灯が伸びて途切れを繰り返し車は速度を増す。
今日の仕事は遅くまでずれ込んで、時刻はもうすぐ日付を跨ごうとしていた。
「明日のご予定ですが、九時から党本部で会議、その後昼食は防衛大臣とご一緒です。十三時より委員会に出席された後、十八時からは後援会の方たちと料亭にて会合となっておりますがよろしいでしょうか」
「ああ、分かっておる」
もう今日のスケジュールは全て終わった。あとは議員を家に送り届けて、その後俺もマンションに送ってもらうだけだ。
遅くなってしまったのでスザクが心配しているかもしれないな、などと考えていたら(元々仕事関係では心配性だったが俺がブリタニアに攫われてから異常なほど帰りを待っているようになった)今日家を出てくるまでのことを思い出した。

 

「ルルーシュ、今日何時に帰ってくる?」
スーツに着替えネクタイを締める。腕時計をつけながら新聞をチェックしているとスザクに声をかけられた。
「今日は……どうだろう。特にいつもと変わりはないが久しぶりの仕事だからな、少し遅くなるかもしれない」
「そっかぁ」
ぼすっといきなり後ろから抱きつかれた。すりすりと鼻筋を首に擦りつけて甘えた仕草だ。
「帰ってきてね。待ってるから」
くるくる跳ねた頭に手を掻き入れ撫でる。子供返りしてしまったようなスザクが可愛く思えて仕方がない。甘やかしたい。でろでろに甘やかして俺だけで満たしたいのは山々なのだが、あまり可愛がるのも教育によくない気がして俺もちょっと我慢しているのだ。
「あんまり無理しないでよ、きみ最近顔引きつってることあるから……疲れてない?」
「大丈夫だよ。遅くなるようなら連絡するから」
「うん。分かった。でも待ってる」
首を回してちゅっと軽くキスをひとつ。ああ、これだけでは足りなくなりそうだ。
「いってきます、スザク」
「いってらっしゃい、ルルーシュ」

とまるで夫婦のようなやりとりをして(一般的に言う男女とは逆な気もするがそれはそれで俺たちらしくていいんじゃないかと思う)部屋を出てきたからには俺は早く帰りたいのだ。
そんな俺を現実に引き戻したのはえも言われぬ不快な感覚だった。右隣の男の肉厚な手のひらが太ももに伸びてきて、まさぐられる。ぞわぞわと背筋が寒くなる。
「……先生。今日はもうお帰りですよ」
今から何を始めようというのだ、もう家も近いというのに。局部にまで侵入してこようとする不埒な手を掴んで、若干の怒りを込めて少々乱暴に元の位置に戻す。
「最近お前が相手をしてくれないのでな」
お前みたいな狸親父の相手をするよりスザクとシた方が比べ物にならないくらい気持ちがいいんだよ馬鹿野郎、とはおくびにも出さずにこやかに流す。全く歳がいっているくせにお盛んなことだ。
しかしそれが好都合なこともある。

 

シュナイゼルから渡された薬は袋一つ分。
カノンの言によればゲンブはこの袋の量で健康に異常を来すよう調整してあるとのことだった。言い換えればこの量で奴を死に至らしめなければならないということだ。毎日人目を盗んで着実にお茶やコーヒーなどの飲み物に混ぜて与えている。しかし未だに異常は見られない。しぶとい奴だと歯噛みする。薬が減っていくごとに内心焦りが募る。シュナイゼルにこちらから連絡する手段はない。ジノも当然だが大学から消えてしまった。
もしこれが尽きるまでに奴が死ななければ? その時は――。

 

「ルルーシュ、聞いているのか」
「え、ええ。どうかなさいましたか?」
まずい、思考が飛んでいたようだ。車はまだ枢木邸には着いていない。
「ブリタニアはどうだった」
「え……どう、というのは」
「帰りたいと思うか」
意外な言葉が聞こえてきた。
腕を組み目を閉じてどっしり構えているゲンブの表情は読めない。この人がこんな個人的な、感情的なことを聞いてくるとは思わなかったので少し狼狽する。それはどういう意図をもって聞いてきているんだ……?
「確かに自分が育ったところは懐かしかったですが、帰りたいかと言われれば……」
ここにはナナリーがいる。スザクがいる。対してブリタニアに一体何があるというのか。ユフィとの再会は嬉しいものだったが、それまでだ。シュナイゼルや、ましてやあの男に至ってはもう会いたくもない。故国に未練などさらさらない。
「思いません。あそこは俺の居場所ではありません」
「そうか」
「ふふ、どうなさったんですか。俺の心配でもして下さったんですか?」
珍しいこともあるものだ。男の膝に手をついてその顔を見上げる。親父というものはこの角度に弱いものだ。囁く。
「……ルルーシュは先生に育ててもらったご恩は忘れません。ずっとお傍でお仕えします」
「ふっ、そのようなこと毛ほども思ってはおらんくせに」
「いいえ。本心ですよ」
お互いに笑いが漏れる。車内が欺瞞で満ちている。
「そうか、ならいい。その言葉信じさせてもらおう」
車が静かに屋敷の前に着いた。
「お疲れ様でございました」
俺も降りて議員が中に入っていくまで見届けた。
「出来るだけ急いでください」
車内に戻って地声で運転手に声をかける。返事と共に車はマンションへとハンドルを切った。

 

帰国してから初めての休日。スザクと共にナナリーの病院へと赴いた。
暗殺者のロロがいることは大きな懸念だが、俺がいる前でナナリーに手出しはさせない。これからは出来る限り時間を見つけて会いに来なければならない。今まで以上にだ。
「ナナリー!!!」
「お兄様!」
ブリタニアなんかに行っていたせいでここに来るのも随分久しぶりになってしまった。車椅子に乗ったナナリーを背もたれごとひっしと抱き締める。見た限り変わった様子はない。元気そうで良かった。
「お久しぶりですね、お忙しかったんですか?」
「すまないナナリー。そうなんだ。ちょっと枢木議員の仕事が立て込んでて、こっちに来られなくてすまなかった。寂しい思いをさせたな」
ナナリーにはブリタニアに行ってきた件は話さないでおこうとスザクと決めていた。余計な心配をさせてしまうのは嫌だからだ。
「そうだったんですか……お疲れさまでしたね」
よしよしと頭を撫でてくれるナナリーは俺にとって最強の癒しだ。ブリタニアに行って以来張り詰めていた糸が少し緩む気がする。それくらい実の妹と一緒にいるというのは心安らぐものだと実感できた。
「ルルーシュ、いい加減に離れたら?」
スザクが苦笑交じりに後ろで笑う。
「うるさい、俺はナナリー不足なんだ!」
「ふふ、いいじゃありませんかスザクさん。お疲れみたいですし」
良かった。ナナリーには傷一つついていない。

「今日はお二人をびっくりさせようと思います!」
ナナリーはそう朗々と宣言した。近年見ない程すごく嬉しそうだ。そんな様子に俺もわくわくしてきた。
「どうしたんだい? そんなに張り切って」
「お兄様、お手を」
不思議に思いながらもナナリーの手を取る。
「両手です」
あと足置きも上げてくださいと言われるとおりにする。これで車椅子に座るナナリーと相対して立っている俺を隔てるものはなくなった。
「いきますよ……引き上げて下さい」
「え?」
「ほらお兄様! もっと強く!」
「あ、ああ」
まさか。
ナナリーが腰を上げて、繋いだ手に体重がかかって、遂には。
「……どうですか?」
夢にまで見た光景が今俺の目の前に広がっている。
――ナナリーが立っている。
足元は震えておぼつかないが、確かに立っている。今までは補助があってもすぐに足が萎えてしまって何秒と立っていられなかったのに。今はしっかりと両足を床につけて立っている。この時俺はナナリーの身長を初めて知った。俺より頭一つ二つ、こんなに小さい。けれど子供の頃より確かに成長している。
「なっなんで……」
「ふふ、お兄様たちを驚かそうと思って、練習してたんです」
涙で前が見えない。スザクの手が肩に掛けられる。俺は嗚咽を漏らして泣いた。このままではナナリーを支えていられなくなりそうだったところスザクが代わってくれた。スザクがナナリーの手を取ってナナリーが立っている。本当に念願の光景だった。涙があとからあとから溢れてくる。
「すごいぞ、ナナリー……! よくやった……」
「ナナリー、すごいね。本当にすごい」
スザクの声も涙声だ。スザクが泣くほど喜んでくれる。そのことも嬉しい。
「俺たちがいない間、ずっと練習してたのか?」
「ええ、ロロさんが手伝ってくれたんです」
「ロロが……」
「もちろんお医者様からの許可はもらいました」
あまり長時間は疲れてしまうだろうということでナナリーを座らせた。やはり疲れたのか息が上がっている。
「本当によく頑張ったな、偉いぞナナリー!」
「お兄様にそう言ってもらえると思って頑張ったんです!」
ナナリーの頬は紅潮している。彼女自身も念願のことだったのだろう。アリエス宮が襲撃されて怪我を負い歩けなくなってからもう何年も経っている。足の筋肉は落ちてしまっていたことだろう。悔しいがこれは議員の援助で最新鋭の治療を受けられたおかげだろう。俺たちだけではここまで回復しなかったと思う。
「ナナリーは努力家だね。立てたのなら次は歩けるよ!」
「おいスザク、焦らせるようなことを」
「いいえ! 私もそれが目標なんです!」
スザクとナナリーは手を取り合ったままきゃっきゃと賑やかだ。
「焦ってはダメだぞ、ナナリー。ゆっくり練習するって俺と約束してくれ」
「はい、分かっています。お兄様」
小指を差し出せばそれを触って識別したナナリーも小指を立て絡ませてくる。スザクに教えてもらった日本式の約束の仕方だ。鈴を転がすような歌声が本当に可愛い。

 

その時病室のドアが開いた。
「兄さん、スザクさん来てたんだ」
懸念の人物が素知らぬ顔をしてやってきた。
「やあロロ。どうしたのルルーシュ、そんなに怖い顔して」
「いや? 別に。そうだナナリー、喉乾いただろう。売店で何か買ってくるな。ロロ一緒に来てくれるか?」
「うん、分かったよ」
ロロを有無を言わさずナナリーの病室から連れ出す。病室から大分離れたところで壁に追い詰め詰問する。
「よくも平然と俺の前に顔を出せたものだな」
「いきなり態度が変わるのも不自然でしょう?」
悪びれずに笑みさえ乗せてロロは言う。ただナナリーの友達だと思っていた時はこんなにふてぶてしい奴だとは思わなかった。
「大丈夫ですよ、あなたが任務を放棄して逃げたりしない限りナナリーは安全です」
「なっ馬鹿な! 俺がナナリーを残してそんなことするものか!」
「声を落として。……でしょうね」
ロロは周りを見渡して人がいないことを確認すると小声で問いかけてきた。
「任務の方はどうなんですか? 順調ですか」
「ああ。お前に心配される謂れはない」
「これであなたも僕と同じ殺人者だよ。ね、兄さん」
「つっ……」
「ふふ、じゃあね」
ひらひらと手を振ってロロは去っていった。俺はどうしようもない苛立ちに壁を殴りつけていた。

 

あくる日の仕事中、急な来客があってその出迎えの準備をしていた時。
人数分茶器を用意する。今日は議員が外回りが多く一回も薬を盛れていないということがあって、俺は少し焦っていた。
計画は子細に設計している。一日のズレが後々大きなことになりかねない。もう慣れたことだが少し震える手を叱咤しながら、すでに茶を注いだ揃いの茶器の一つに白い粉を小さな匙で振りかける。見る間に溶けていった。
「ルルーシュ、お疲れ」
その時聞きなれた声が給湯室の入り口から聞こえた。びくつく身体を押しとどめて袋を胸ポケットにしまう。
「スザク。来てたのか」
「さっき父さんに呼ばれたんだ。なんかお偉いさん来てるみたいだね」
「ああ、そうなんだ。お前もご挨拶するといいな」
震えそうになる声を押さえて平静を装う。
――見られたか? いや粉を入れる決定的なところは見られていないはずだ。入口からだとキッチンに向かう俺は背を向けている格好になるし、スプーンはもうシンクの中だ。
「もう父さん、お茶汲みならルルーシュにやらせなくてもいいのに。手伝うよ」
「いや、これも俺の立派な仕事だ。お茶を適温で美味しく淹れるのは案外難しいことなんだぞ。それに後継ぎがやることじゃない」
盆を持ち上げようとするスザクを遮る。覚えていた茶碗の位置を動かされたらお終いだ。
「ほら、お前は挨拶に行ってこい。俺は今おまえの分も淹れて持って行くから」
「うん、分かった」
遠ざかる足音に安堵の溜息をつく。
スザクに見られたら……想像するだけで恐ろしい。確かに誰かに見られた場合の言い訳は何通りか用意してある。逆に健康になるための薬だといってしまえばそれまでだ。しかしスザクにだけは最も見られたくない。平静を装えるか分からないからだ。とりあえず今は見られてはいないだろうと自分の心を落ち着ける。
スザクの分の茶を用意して応接室のドアをノックする。茶碗を間違えないよう注意しながら出す。客の前で平然と主人に毒を盛っているという事実。こういう時自分の面の皮の厚さに感謝する。
「ありがとう、ルルーシュ」
なんの邪気もないスザクの顔を見ていると笑顔の裏で少し泣きたくなる。
ごめんな、こんな俺で。